こんばんは。集団指導室長の鈴木です。
『忘れられた日本人』には「梶田富五郎翁」という話があります。以下、その一部を引用致します。
…まァ一日にタイの二、三十貫も釣って見なされ、指も腕も痛うなるけえ。それがまた大けな奴ばっかりじゃけえのう。ありゃァ、かかったぞォ、と思うて引こうとするとあがって来やァせん。岩へでもひっかけたのかと思うと糸をひいていく。それを、あしらいまわして機嫌をとって船ばたまで引きあげるなァ、容易なことじゃァごいせん。(中略)そのかわり引きあげたときのうれしさちうたら--、あったもんじゃァない。そねえなタイを一日に十枚も釣って見なされ、たいがいにゃァええ気持になる。晩にゃ一杯飲まにゃァならんちう気にもなりまさい。そういう時にゃァ金もうけのことなんど考えやァせん。ただ魚を釣るのがおもしろうて、世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった。
『忘れられた日本人』p.188, 189より。
最後の一文が胸に沁みます。五感を通じた充実感は、忘れられない経験となったのでしょう。現代では、そういった体験を得られる機会がめっきり減りました。現代の充実感は、かつての充実感とは意味合いが異なってきているのかもしれません。時間の流れが早い現代では、短時間でいかに効率よくできたかが充実感の指標になっているような気がします。2月21日の「生きる」の投稿で記したように、私たちは「忙しそうで実は何もできていない人生を送」っている可能性が潜んでいます。その空虚な積み重ねの先に待ち受けているものは何もありません。充実感と一口に言ってみても、その内実は様々です。私たちは本当に中身のある日々を過ごせているのか、改めて問われた思いが致しました。
和歌山県田辺市本宮町にある大斎原です。風に揺れる稲穂と、近くを飛んでいるたくさんのトンボに癒されました。