というカードゲームが、私の小学生の頃、地元で流行りました。当時は富士見書房さんが出されていたものだと記憶していますが、自宅に何人も招いては、夢中になってカードゲームに興じておりました。

 はじめ、私は遅れてその輪に入ったのですが、やればやるほど違和感がありました。

 ゲームバランスがおかしいのです。

 トランプゲームに「大富豪」があります。地域によって微妙にルールが異なることがあるのですが、それと似ていて、独自のルールでそのカードゲームも行われていたのです。しかも、微妙にルールが異なるのではなく、自分たちの都合のいいように曲解されてしまっていたのです。

 いつしか私は「ルールブックには、本当にこのようにやるよう書いてあるのだろうか?」という疑問を抱くようになり、自然とルールブックを読み込むようになっていました。

 読めば読むほど、今までの違和感がなくなりました。今振り返ると、啓蒙思想とはこういうことを言うのだな! といった感じでしょうか(笑)。わかりづらいですね。

 ルール通りにやったほうがゲームバランスがよくなり、確実に面白くなるな、と思いました。

 翌日、みんなにこのことを話すと、「おかしいと思ってたんだよな!」という声もあれば、「これじゃつまらないな」という声もあったことに驚きました。特に、以前のルールであれば有利に事を運べるカードを持っていた友人は、後者のように思っていたようです。真実を伝えることはいいことだと思い込んでいた私は、意図したわけでもないのに仲間を分断してしまったのです。仕方のなかったこととはいえ、申し訳ないことをしたなと思います。

 こうして、真にカードゲームを楽しみたいメンバーだけが残り、一部は高校生になるまで熱中することになったのです。

 昨日の武さんの例のように、今、目の前で当たり前のように展開している出来事が、実は誤っていたということは日常多くありそうです。私がそこから脱せたのは「違和感」があったからでした。

 当たり前を否定することは勇気のいることです。私の場合は若さゆえの勢いで偶然やってのけることができましたが、「これを言ったら人間関係が悪化するなぁ…」と今では思ってしまうことも多く、つい自分の思いを胸に秘めてしまうことがあります。

 しかし、それは結局のところ保身でしかありません。自分の身がかわいいだけなのです。

 短期的な人間関係がどうのというよりも、言うことで人の世の中が少しでも好転するようであれば、言うべきだと思います。今を生きる私たちは、そういった長期的な視点を持つことが苦手なのか、つい安易で短絡的な結論を出してしまいがちなようです。

 誰かが言うのを待つのではなく、勇気のある一歩を踏み出せるかどうか。

 この差は大きい。しかし、痛みのあるほうを選んだほうが、長い目でみると全てがよくなることが多いように思います。

 ひとりでも多くの人々に、勇気ある決断ができますように。私も祈るだけでなく、そういう側でいられるように生きたいと思っています。