こんにちは。集団指導室長の鈴木です。

 国語担当という職業柄、ありがたいことに様々な作家さんの文章に断片的に触れられることがあります。「これは!」と思える文章に出会えると、思わず本を購入してまで読みたくなるのです。面白いのが、国語の問題として断片的に扱われている文章がその本の核心部分であることもあり、購入して本を読んでみたけれども、断片的に読んだところ以上の感動はなかったな・・・なんてこともあります。それほどまでに国語の問題というのは文章が精選されており、興味をそそられることが多いと思うのです。

 先日、京都大学の問題を高校生と解いていたのですが、坂口安吾のエッセーが出題されているんですね。安吾といえば、私は卒業生のNくんを思い出すのですが、物凄い安吾かぶれな子で、当時の私はぐいと迫られると逆に興味を失ってしまう偏屈爺でしたから、安吾の作品はついぞ読まずじまいでした。しかし、京都大学で出題された「意慾的創作文章の形式と方法」が面白く、高校生たちと話の内容を議論するうちに興味を示してエッセー集を購入して読んでいるところです。

 本日は、そのエッセーのひとつである「枯淡の風格を排す」を抜粋して取り上げようと思います。以下、引用です。※今とは送り仮名の基準が異なっておりますが、原文のまま引用致します。

 年をとると物分りが良くなるというので急に他人のことを考え、慾がなくなるなぞという納まり方は信用できぬ、人間生きるから死ぬまで持って生れた身体が一つである以上は、せいぜい自分一人のためにのみ、慾ばった生き方をすべきである。毒々しいまでの徹底したエゴイズムからでなかったら、立派な何物が生れよう。社会組織の変革といえども、徹底的なエゴイズムを土台にしたものでない限り、所詮いい加減なものに極(きま)っていると私は思う。本音を割りだせば誰だって自分一人だ、自分一人の声を空虚な理想や社会的関心なぞというものに先廻(まわ)りの邪魔をされることなく耳を澄(すま)して正しく聞きわけるべきである。自分の本音を雑音なしに聞きだすことさえ、今日の我々には甚だ至難な業だと思う。

 いかがでしょうか。安吾はかなり本質的なことを言っているように感じます。鋭い文章というのは、時代や世代も飛び越えますね。若いときにNくんが話してくれたことを、もっと素直に聞けていればと今更ながら反省しています。同時に、今、安吾の文章に心底感動できる自分に出会えていることにもありがたさを感じます。人生は不思議ですね。どこでどうなるかわからないものです。人だけでなく、文章との縁も大切にしていきたい今日この頃でした。

 宮崎県の高千穂峡です。日本神話に関する見どころが多く、訪れたことで神話に興味がわいてきました。本からだけでなく、現地を訪れた感動からも興味・関心を広げていきたいものです。

 またアップロード容量を超えてしまうとかで、画質を落とした写真を載せることになりました・・・(つД`)カンドーヲワカチアイタイノニ。どうにかならんかねコレ!(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾