こんばんは。集団指導室長の鈴木です。

 長年塾にいると、勉強することがあたりまえのように思えてこわくなることがあります。

 子どもたちからすると、勉強することはハードルが高く、思うようにならなくてやきもきすることが多いと思います。もちろん、中には勉強が好きでたまらない子もいるでしょう。

 しかし、ゲームのように、やればやるほど自分のキャラクター(あるいは操作技術など)の成長が可視化されやすいものと異なり、勉強は進捗状況がわかりづらいものです。そのため、取り組む側にある程度の忍耐力がなければ、なかなか継続することが難しいと思います。

 それなのに、勉強することはあたりまえだ、と言われても、子どもたちからすると「なぜ苦労することを自ら進んでしなければならないんだ?」と思ってしまうのかもしれません。

 現代ではもはや、「苦労する場所」が貴重になりつつあります。

 わからないことは検索すれば出てくる。ことばの意味でさえ紙の辞書ではひかない時代です。一昔前は、紙の辞書でひくのがあたりまえで、それがより面倒臭い作業だと思うようになってしまったのは、インターネットの発達やスマホの普及などが原因だと思われます。私たちは、文明の利器で人間が進化しているように思いがちですが、それによって失われつつある何かにも目を向けるべきなのだと思います。明らかに、「そのひと手間が面倒」な人間が増えているように感じます。忍耐力の失われた先に待つのは、超効率主義の時代か。

 今、塾に求められているのは、あたりまえのように勉強することができるよう、忍耐力が失われつつある子どもたちに寄り添って承認し、苦労を乗り越えられる人材に育てあげることなのだと思います。勉強では、将来の擬似訓練になりがたいという声もあるかもしれませんが、やりようによっては社会の様々な厳しさが学べる場になりうると思います。

 これからの塾は、勉強を通じての人材教育に主眼が置かれるようになっていくでしょう。勉強内容だけをただ教えるだけでは、存続が難しい時代になりました。

 一年前の子どもたちと今の子どもたちを比べると、だれ一人として成長・変化のない子はいません。実に粒揃いで、これからの活躍が楽しみで仕方ありません。みんながみんな順風満帆というわけではなく、今まさに壁にぶつかっている子もいます。でも、四苦八苦してはじめて響くものがあるじゃないですか。「あぁ、響いてるなぁ〜」と感じられるときほど、熱くなるものはありません。苦労の先でこそ、人の言葉は響きます。逆に言えば、苦労をしていない人間には、理解することのできない領域があるのです。私たちは、これからも子どもたちと切磋琢磨し、人として互いに成長していきます。

 先日、鎌倉の明月院を訪れて撮影したあじさいです。大河ドラマ・アニメなどの影響でしょうか、鎌倉は大混雑でありました( ;´Д`)。

 こちらの明月院には、たくさんのリスがいました。こんなに身近で活発に動くリスを見たことがなかったので、とても驚きました。鳴き声が独特ですね。

鎌倉といえば「鳩サブレー」だと思っていましたが、最近は紅谷さんの「クルミッ子」にはまっています。早いときには昼頃に売り切れてしまうようです。恐ろしや…。