こんばんは。集団指導室長の鈴木です。

 夏期講習が始まりました。

 暑い…。暑すぎます! 湿気も凄く、大変な暑さとなっていますね…。健康第一で、学業にとって大切な夏を乗り越えていきましょう。

 さて、今日は坂口安吾の『堕落論』を取り上げたいと思います。

『堕落論』は1946年に発表された安吾のエッセイです。その名前からマイナスなイメージが連想されますが、私は坂口安吾さんが、終戦後の日本だからこそ、人々を励ましたい想いで記されたメッセージではないかと受け取りました。


 人は、堕落する。

 だからこそ、日本人は古くから天皇制や武士道など、様々なカラクリをつくり、人が堕落しないようにと工夫をこらしてきた(優れた人間洞察により、これらのカラクリは生まれた)。

 しかし、その中で生きることは、人本来の、赤裸々な姿ではない。

 私たちは、カラクリの中で堕落しないようにと生きてきたが、その結果が敗戦である。

 嘘っぱちな生き方はもうやめよう。

 私たちは形式ではなく、ありのままを話すべきだ。

 今こそが、人間としての再出発のときである。


 以上、私なりの『堕落論』解釈です。読んでしばらく経っているため、正確ではないかもしれません。その点はご容赦ください。

 熱いメッセージではないでしょうか。一見すると天皇制などの批判のようにも受け取られますが、焦点はそこにはなく、人としてどう生きることが本来の姿なのだろうかという点が、安吾さんが人々に向き合ってほしいと願ったことではないかと推測されます。

 最後に、私が『堕落論』で一番刺さった部分を引用させて頂きます。

 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕(ちん)の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外(ほか)ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

 我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい土人形の如(ごと)くにバタバタ死ぬのが厭(いや)でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云(い)い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨(みじ)めとも又なさけない歴史的大偽瞞(だいぎまん)ではないか。しかも我等はその偽瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当りをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒瀆(ぼうとく)する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎(な)れており、その自らの狡猾(こうかつ)さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益(ごりやく)を謳歌(おうか)している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑(つ)かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。

 人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度(ごはっと)だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先(ま)ず人間の復活の第一条件だ。そこから自我と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。

『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』(岩波文庫)p.237-238より。( )内の読みは鈴木が加えました。また、現在とは送りがなの異なる箇所がありますが、その点は出典どおりに致しました。

 少し長かったですかね。いかがだったでしょうか。私は、戦後の混乱期を想像しますと、安吾さんの言葉・想いに救われた方が少なくなかったのではないかと思っています。もしかしたら、「敗戦国なのだから」といって思い悩まれ、好きなことを好きと言ってはならないというような厳粛な雰囲気があったのかもしれないな、と思うと、涙なしには読むことができません。

 戦後を生きる私たちは、また新たなカラクリを生み出し、さとらぬうちにその中にいる可能性があります。人としての赤裸々な姿を忘れることなく、何が大切なことなのかを見失うことなく、誠実に生きていきたいと、気持ちを新たにしました。

 山形県の立石寺(りっしゃくじ)で撮影しました。松尾芭蕉の『おくのほそ道』に出てきます。

 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

 この句が読まれたことで有名ですね。夏は始まったばかりです。はりきっていきましょう。