おはようございます。集団指導室長の鈴木です。

 『忘れられた日本人』には、「子供をさがす」という話があります。母親から「いくら言っても言うことをきかぬような子は家の子ではない」と言われた子が、外へ出たきり帰ってこなくなります。

 村中を巻き込んでの大捜索が始まりました。

 読んでいて「すごいな」と感じたのは、リーダーがいて申し合わせたわけでもないのに、手際よく各地を捜索していることでした。村人が子供の家の事情や暮らし方をすっかり知り尽くしていたからこそできたことではないかと書かれています。

 一方で、この捜索に参加せず、うわさ話に熱中していた人たちがいたようなのです。近頃よそから来てこの土地に住みついた人たちです。子供の家の批評をしたり、「海へでもはまって、もう死んでしまっただろう」などと言ったりしていたようです。

 すっかり他人ごとなのです。

 そして、現代におきかえてみると、私たちは後者に近い日常を送っているように感じます。

 こんな中で地震でもおきようものなら…と想像して戦慄しました。見て見ぬふりをするような他人ごと人間が、今の世の中にはいかほどいるのか。

 個人のプライバシーを尊重することは大切なことだと思うのですが、いざというときに団結できない可能性が高まることも視野に入れて考えないと、自分さえよければいいという利己的な考えが根付いてしまいそうです。

 事が起こってからでは遅い。私たちは、かつての村落共同体から学べることがまだまだ多そうです。

 捜索の結果、子供はいつの間にか自宅に戻っていました。騒ぎが大きくなり、出るに出られなくなっていたところ、父親の声が聞こえたことで機会を得、発見されたとのことでした。

 捜索した人の中に若い男がいて、いつまで経っても戻ってこない。

 その男の人が戻ってきて判明したのですが、どうやら子供の一番仲のよい友だちがいる、遠い山寺まで探しに行っていたようなのです。いつも子供たちをどなりつけていた人らしいのですが、子供には人気があったといいます。

 現代では、どなりつけられること自体が忌避されています。

 一体、どのような人が子供のことを一番よく考えているのか。

 私たちは、その見極めだけは誤らないようにしなければならないと思います。

 岩手県遠野市にある「伝承園」内にあるオシラ堂です。オシラサマがまつられています。願いごとにとどまらないように、私たちは行動にうつしていかなければなりませんね。