でいたくないのが、日本人の国民性なのかもしれません。以前、落合陽一さんが、日本人は「単一民族で中央値を求めたがる国民性がある」ということを仰っていて、本当にその通りだろうなと感じています。
さらに複雑なことに、「それは表面上はそう」、ということになりそうです。つまり、みんな様子見をしているだけで、少数派の意見を心の片隅に潜ませてはいるのだということです。誰かがそれを主張し、勢いがあるとわかれば、「実は私もそうなんだ」になりうる。状況を見てから動くという点で、生き方が賢いと言えるのかもしれないですが、潔さがない点で私はズルい生き方だなと感じてしまいます。そのような生き方に魅力も感じません。だれかの後追いほど退屈な人生はないからです。やるなら、自らが先頭に立っていないと面白さがありませんし、力も出ないと思います。
子どもたちを見ていると、だれかに迎合する生き方が染みついてしまっているな、と感じることがあります。自分では何も考えず、周りの空気を読んで行動している子が多いのです。かたや、あらゆる情報を鵜呑みにせずにちゃんと落とし込み、自分のものにしている子もいます。恐ろしいのは、人間は結局のところ習慣的な生き物だと思うので、こうした日頃の意識の持ちようで、5年、10年経つと歴然とした差がついてしまうことです。物事を自分事として考えられるか。フィールドに立ち続ける覚悟があるか。裸の自分をさらけ出せるか。ちょっとした考え方・立ち方の違いが、大きく人生を左右すると思うのです。
少数派だから自分の意見を変える、で本当にいいのか。自分の想いがあるのなら、貫き通せばよいではないか。そのあたりのことを、子どもたちにはよく考えてもらいたいと思います。