人に何かを響かせるには、タイミングがあるようです。毎日同じことを指摘し続けるとかえって効果が薄れていくように、子どもたちも周りの人からの日常的な忠告には聴く耳をもたなくなっていくようです。

 では、どのようなときには響くというのか。

 失敗です。失敗の度合いが大きければ大きいほど、人の指摘は届きやすい。しかし、その指摘をする側の人間がどれほど相手の立場に立てているかで、その届き具合にも差が出るように思います。

 塾でいうと、子どもたちが不合格という現実を突きつけられたとき。そのとき、何と声をかけるか。ここに人間力の差が出ます。日頃どれほどその子のことを思っているのかが、全面的にあらわれるのです。

 この局面になって初めて「先生が言ってくれた言葉の意味がようやくわかった」という子もいます。こういう子は大学受験で、あるいは社会に出てから大きく飛躍することがあります。受験が、その子に必要なものが何であるかを教えてくれたのでしょう。

 このように、痛い目をみないと、人は心底反省をしないものなのかもしれません。痛い目はなるべくさせたくないと思われるかもしれませんが、そういう配慮が、かえって子どもたちを弱体化させ、成長の機会を奪っているように感じます。

 塾としては、全員を合格させることが最重要課題です。

 が、同時に、万が一の場合に備え、あらかじめその子が受験を通して学ばなければならない・向き合わなければならないこと--人によって異なりますが、例えば字の正確さや計画性のなさ、忍耐力、偏ることのないバランス感覚(特定の教科ばかりやりすぎること)などなど--に対してアプローチするのです。

 つまり、合否に関わらず「よい受験だった」と思えるような下地を築いておくのです。それがないと、「ただ受験のためだといってたくさん勉強をやらされた。本当に辛かった。もうしばらく勉強はいいかな」となってしまい、それこそこれまでの努力が水泡に帰すことになりかねません。

 大切なのは、人をみる、ということです。

 その子のためを思った言葉を投げかけることです。

 私たちは勉強を教えていますが、同時に人としてどう生きていけばよいのかを示せる模範でなければなりません。そうでなければ、こちらからどんな言葉を投げかけようとも、「お前だってできてないじゃん」となり、子どもたちから信頼されません。

 人に何かを響かせるには、タイミングもありますが、「だれに」言われるかも大事な要素なのです。その言葉を投げかけるにふさわしい人間なのかどうか。塾で働く者が試されるのは、このような瞬間においてです。人間全てが出るからです。だから私たちは、勤務中はもちろんですが、勤務外でも研鑽を積んでいるのです。そうでなければ、子どもたちの前に立つ資格はないでしょう。

 人に何かを響かせるには、近道はありません。地道な積み重ねのうちに人間としての厚みを出すしかないのです。そして、人間としての厚みが出れば、その人の言葉はいつ何時でも相手に響くものとなるのでしょう。

 奇跡の一本松と…彗星?