こんばんは。集団指導室長の鈴木です。

 月に一度、お墓参りに行きます。昔は「両親が行くから」と、自分の意思で赴くことはありませんでしたが、この歳になると、自ら足が向かうようになりました。

 自分なりに、今ここでこうして生きているということが当たり前ではないということ、ご先祖様の努力の賜物であるということを身に染みて感じているからかもしれません。

 誰かが諦めてしまっていたら、ここに自分はいない、と思うと、背筋が伸びる思いが致します。

 だからこそ、お墓に造花が捧げられていると、いたたまれない気持ちになります。

 私は、下手の横好きで、生け花をかれこれ10年以上続けております。植物がいきいきとしている様子から、段々と元気がなくなり、しおれていく様子をまがりなりにもたくさん見てきました。おかげさまで、道を歩くときにはよく植物を見るようになりました。とくに、いきいきとしている植物が目につくのです。

 しかし、造花から感じられるものは何もありません。つまるところ、生花を捧げることが面倒になっているだけなのではないか、と感じてしまいます。そうだとしたら、私は警鐘を鳴らしたい。そのうち、生きることも面倒になるぞ、と。

 死者の墓に、生きていない=死ぬことのない造花を捧げることほど、亡くなった方を皮肉り、侮辱するものはないとさえ思うのです。いつまでも死なないとなったら、生きていることにも特別な意義がなくなってしまうではないですか。今を生きる私たちがそんなことをしてはダメだと私は思います。

 自らが生けた植物が枯れていくとき、悲しい思いがします。同時に、元気な姿を、生け花を見ている子どもたちに見せてくれてありがとうな、と感謝もしています。思えば、植物を切り取り、剣山に刺して観察するという自分勝手なことを人はしているわけですが、だからこそ、植物に対する畏敬の念がわくのだとも思います。

 私たちは、生きとし生けるものを敬い、そして命を全うしたものをも敬わねばなりません。今を生きる身として、このことは忘れずに過ごしたいと思います。

 ひまわりとなでしこ、レースフラワー、ドラセナ、トクサを生けたときに撮影しました。ちょこんと顔を出しているなでしこが可愛らしく、元気をもらえますね。まさかそのような感覚をもつようになるとは、学生の頃は全く想像もしなかったことです。そのような経験を、子どもたちにもしていってもらいたいですね。