こんばんは。集団指導室長の鈴木です。

 以前、岩手県遠野市を訪れたとき、現地で柳田國男さんについての展示・映像を見ました。

 柳田さんは民俗学を「人が自分を見出すための学問であり、世のため人のためになる経世済民の学問でなくてはならない」と捉えているようでした。

 そしてこの度、宮本常一さんの『忘れられた日本人』を読み始めました。まだ30分くらいしか読んでいないのですが、休日も夏期講習の準備で忙しいのに、危うく読む手が止まらなくなるところでした。それほど面白いのです。初めのお話は対馬の現地調査の話で、現地の人との交流が記されているのですが、現代人とは全く感覚が異なる地元民の様子が書かれており、今や忘れ去られた日本人のあり方が鮮やかにイメージできるような生々しさがあります。例えば、「寄りあい」といって、ああでもないこうでもないと何日も話し合いを重ね、あちこちに話は飛ぶけれどもちゃんと話の軸はあって、みなで話し合って決めたことは大切にする、というような場が、かつては日本の至るところであったのだなぁと感じられます。話し合いの場に2、3日居座ることもあるらしいので、面白いなぁと思うのです。眠くなり、言うこともなくなれば帰るとか(笑)。しかし、昔の話でしょ、と馬鹿にできない何かが、そこにはあるように感じるのです。現代は考え方が非常に合理的になりましたが、何かが忘れ去られている。そんなことを想起させてくれそうだなあと、これから読んでいくのが楽しみな気持ちになりました。何でもかんでも明らかにしたがる風潮にいる私たちは、理屈では捉えられないことについても学んでいく必要があるのではないでしょうか。

 遠野市にある荒神神社です。この地には、不思議な魅力があります。