こんばんは。集団指導室長の鈴木です。
次の文章は、『忘れられた日本人』からの引用です。
小さな村は共同生活をする場所としてはせますぎたし、自ら家々の中にあることのすべてが知れわたっていく。それでいてなお世間に知られてはわるいようなことも多かった。とにかく隣が何をしているかということがわかりすぎることは、お互の生活を息苦しくさせるものであり、都会で生活するような気らくさは得られない。それも今日のように農以外の就業の機会が多くなって来て、村中のものが一日顔をつきあわすこともすくなくなると、たしかにそれだけ気持はらくになるが、同じように百姓していて、田植にも草とりにも稲刈にも同じ田の面で働いていると、どこの誰がどんなに働いているかも一目でわかって、うかうかとなまけることすらできない。そうした世間に調子をあわせて生きるとなると、個々の生活にいろいろ無理もおこって来る。そういうことがのびのびとした人間性をおしつぶさねばならぬ場合も多い。それに日頃の生活はいたって単調で、一本の道をはてしなく歩いて行かなければならないような日々である。
宮本常一『忘れられた日本人』p.39, 40より。※一部、現在と送りがな表記が異なる箇所がありますが、そのままとしました。
一昔前の生活と今とでは、生活のスタイルが随分と異なっている様子が伝わってきます。今を生きる私たちの生活が、これまでの日本人といかに違うか。もはや別の人間になってきているのかもしれません。かつては、毎日気苦労が絶えなかったでしょうね。しかし同時に、そういう生活しかできなかったことに対する憧憬も感じるのです。少なくとも、昔の人の方が人間についてよく観察し、人間について知り尽くしていたように思います。今は、人間同士の距離が離れ、間にスマートフォンなどの人工物が介在したコミュニケーションが主流になってしまっているので、相手の姿も見えないまま、ああでもない、こうでもないという不毛な議論があちらこちらで繰り返されています。コミュニケーションに人の匂いがしなくなった。これに尽きるかもしれません。そうして溜まった鬱憤を晴らす場所もまた、人の匂いのしない場所になってしまっているので、タチが悪い。次の引用も、現代を生きる私たちに訴えかけるものがあります。
…観音講(60歳以上の女性が10人ほど、小さいお堂に集まり、飲食しながら話し合うことをさす)のことについて根ほり葉ほりきいていくと、「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向って嫁に辛くあたらなくてもすむという。
宮本常一『忘れられた日本人』p.43より。( )内は鈴木注。
今と比べると、随分とアナログなことと思われてしまうかもしれませんが、「鬱憤を晴らすために必要だからやっているのだ」という切迫感があります。人間を知り尽くしていないと設けられない場ですから、大変理にかなった話し合いの場だと思うのです。
こういった、長年の人間観察の結果生まれた場をないがしろにし、まだ慣れない人工物によるコミュニケーションに舵を切っている現代人は、昔の人々に比べて劣っていないと言えるでしょうか。
以上のような事例を通して現代を見つめ直せるような場が、もっと増えればいいなと感じている今日この頃でした。
遠野の風景。たたずまいに存在感があります。