こんにちは。集団指導室長の鈴木です。

 昨日は中学3年生の学力調査の日でした。ますます静岡県の公立入試に形式が近づいてきましたね。これからもまだまだ内容が変わっていくだろうなと感じさせる問題でした。

 また、附属中学校では中学1・2年生の前期テストが行われ、公立中学校ではテストの返却が始まっております。安東中学校や末広中学校など、テストがこれから控えている学校もあります。そして、本日は附属中学校の3年生が前期テストを今まさに行っているところでしょう。

 大切なのは、終わったあとに自らを省みる時間をとるかどうかという点にあります。一過性のものにしてしまわないように、しっかりと振り返り、今後にいかしていきましょう。過去を断片的なものとせずに、すべては連続している、今につながっているという意識をもてるとよいですね。今が最善である、と誰もが思える日がおとずれてほしいと感じます。

 さて、今日は「物事の捉え方」について、『忘れられた日本人』からの引用を通して考えてみたいと思います。

…ある朝のことでありました。目がさめて何気なく見ると、あの家(引用者注:鈴木和さんという方の家。貧乏のため、家がつぶれかけている)に後光がさしているではありませんか。わたしはおどろきましてな。それも実は何でもない事で。ここは西をうけて東に山があって日のあたるのがおくれる。和さんの家は東をうけて日のあたるのがはやい。わたしの家と和さんの家の間にはひろい田がある。わたしの家にまだ日のあたっていないとき和さんの家にはあたります。朝日が出て、その光が水のたまった田にあたって、和さんの家へあたります。朝日が直接にもあたります。つまり両方からあたりましょう。それがあの家をかがやくように明るうして、中二階のガラス障子がそれこそ金が光るように光ります。どういうものか、昔はそれほどキラキラしなかった。まァとにかくおどろきましてね。この家はこれからきっとよい事があると思いました。

(中略)※引用者注:その後、和さんにそのことを伝えた語り手。和さんは語り手の家からその光景を朝早くに見せてもらう。

「なんとええもんじゃないか」といいますと、和さんも「ほんに、あれがわが家でありますか」としばらくは声もでません。そうしてあんた「わしは自分の家をこのようにして見たことはいままでなかった。何とよいもんでありましょう。おかげで元気が出ました」と喜んでかえりました。

『忘れられた日本人』p.93, 94より。

 鈴木和さんの父親は酒好きで、自分の土地を抵当に入れるのですが、手に入れた金銭を酒代に使ってしまったことから抵当はながれ、財産を失ったようです。父親は亡くなり、息子は兵隊にとられ、和さん一人が働いて家を守っていたと言います。

 運よく息子は戻ってくるのですが、土地はなく、小作だけでは食っていけないということで闇屋をやっている。しかし戦後の農地改革で、なくなった土地が戻ってきたのです。つまり、父親がすきに飲んだだけ得をしたという話なのですが、このように良いことづくしになったのが、上記の引用話の後だったようです。神秘的なお話です。語り手は、このように気の毒な家がなくなることが「この世の極楽」だと話しています。そして、「何と申しましても村の内が栄えるのが一ばんよい事であります」と述べてこの話は終わります。

 見慣れているはずの風景が、あるとき突然驚くような風景に変わることがあります。自分の家を、いつも見ている側からではなく、山の上から見たときに全く別物に見えて新鮮な思いをした、というような経験をされた方もいるでしょう。また、旅先でも偶然天候に恵まれて運よく絶景を眺めることが叶うことがあります(私にとっては2月4日「実感」の投稿で書いたことがまさにそうです)。不思議なことですが、そういったことに出会えると日々が明るくなり、またそういった気持ちになりたいなと、随分前向きに捉えられることがあります。充足感とともに、よりよく生きたいという想いがわいてきます。

 子どもたちには、勉強だけではなく、そういった体験から生きる力がわいてくることも伝えていきたいと思います。

 上高地の穂髙神社奥宮にある明神池です。神社のしまる17:00近くに辿り着きましたが、人もほとんどおらず、神々しい雰囲気を味わうことができました。人が多すぎるとどうも私はダメで…。おこがましくも、雰囲気が台無しだなんて思ってしまうんですよね(笑)。このときは偶然、そのような雰囲気に恵まれました。ありがたや…。