「この人の考えや思想は後世に遺した方がいいのではないか」と思うことがあります。でも、そういう人ほど記録に遺そうとしていないような気がします。本当に価値のある生活を送っていた人の考えや思想は、遺された記録の外側で自然と失われてきてしまった側面もあるのでしょうね。逆に、失わせまいとして、近くにいた人が遺そうとした側面もあったかと思います。

 内村鑑三も『後世への最大遺物』の中で、人の生き様を遺せ、と言っています。これはだれにでもできることだ、と。

 とはいえ、現代はあらゆる人の生き様があらゆる媒体で残っていますが、本質に迫れているものは一握りでしょう。そして、何度も言うようですが、本当に価値のある生活を送っている人の日常はきっと広くは明らかになっていません。

 音楽家の久石譲さんが著書でおっしゃっていたように、こうしてやろうという作為から脱しているところにホンモノは生まれるのかもしれません。だから見つかりにくい。

 その意味で、「人生はだれと出会うかで決まる」というのは、本当ですね。冒頭のように思える方が身近にいることのありがたさ。岡本太郎が坂口安吾に影響を受けたように、後継者が現れれば、その大本がだれであったかわからなくても、人の想いは受け継がれていくものなのでしょう。ましてや彼らの作品は世に遺っていますから、作品を通じて感じられる彼らの想いは多くの世代に引き継がれている。大きな影響力をもつ人が著作などを遺さなくても、影響を受けた側が意志を引き継ぎ何かを遺せば、大本はわかりませんが、結果、その人のイズムは遺る。そういった意味で、名もなき人々の想いは知らずのうちに私たちの中に組み込まれているのかもしれません。人の世が続けば、いつかそういったことまで把握されるような時代が来るのでしょうか。楽しみです。