を少しずつ読んでいます。現在、長いまえがき部分を読んでいるのですが、全くわからない(笑)。しかし、馬鹿なりに一生懸命読んでいると、「これがキーワードなのかな…?」ということが段々とわかってきて、関連付けられ、霧が晴れるような感覚になってくるのが読書の面白いところだと思っています。本当はどの部分も何を言いたいかがよくわかるといいのですが、今の自分にはこの読み方が限度なようです。
そんななかで、印象的だった部分を紹介したいと思います。
…高等教育をうけたこんにちのアメリカ人たちは、かつての時代の人びとよりもさらに多くのこと、そしてかなりちがったことを人生のなかに求めようとしている。社会が安定して、豊かになったおかげで、かれらはたんに飢をしのぐというだけでなく、むしろ「いい暮らし」を求めるようになってきているのである。しかし同時に、選択の幅が大きくなったためにこのいい暮らしという場合、いったい何がよいのかについて、一種の疑惑がうまれてきたのもまた事実である。教育水準があがり、人間の社会的移動が高まり、マス・メディアが発達したことによって、じぶんじしんのぞくする血縁集団だの、じぶんのぞくする社会階級だの、ときとしてはじぶんの国だのを越えてはるかに広い範囲の社会に感情移入をするという一般的な傾向がうまれてきた。すなわち、個人は心理的にじぶんの仲間の存在を意識するばかりではなく、じぶんの仲間としてさまざまな人間をうけいれようとしはじめているのである。それがじぶんの身近な人間であれ、また、マス・メディアを通じて知っている人間であれ、かれはそのような人物をじぶんの仲間として容易に迎え入れるのである。こんにちのアメリカにおいて、人間の問題というのはまさしく、他の人間たちについての問題ということにほかならない。そしてこれらの他の人間たちは、その数からいっても以前よりはるかにふえているし、その性質からいっても以前よりもはるかに異質的になってきているから、社会的心理的な状況は、さらに幅の広いものになってきた。しかし、人間のことを強調するようになったために、自然とか、宇宙とか、神とかいったような考え方は背景にしりぞくか、あるいはまったく消滅してきた。そしてその結果、人間の性格のなかのある部分が後退し、そして他の部分がその姿をいよいよあきらかにするようになってきたのである。
『孤独な群衆』p.19-20より。
このまえがきは、1960年の11月に書かれたもののようです。今なお、みずみずしさを失っていないように思います。だからこそ、書かれていることをもっと探っていきたいと思えます。古典的な名著が今なお読み継がれているのは、そういった人間の探究心をくすぐるところがあるからなのでしょう。
しばらくは『孤独な群衆』に関することがらが続きそうですが、ご容赦頂ければと思っております。