こんばんは。集団指導室長の鈴木です。

 黒澤明監督が1952年につくられた「生きる」という映画を観ました。

 市民課の課長が主人公の映画です。仕事に忙しいが、自分の地位を守ること以外には、本当は何もしていない男なのである、と語られる冒頭のシーンから、この映画がただならぬことを言わんとしている様子が伝わってきます。

 この映画の物語は、主人公が胃がんとなることで、改めて人生を見つめ直す機会が与えられるというものです。そして、自分がやるべきことを悟った瞬間、ハッピーバースデーの歌が流れ、主人公の生きる意味が誕生したことを示唆するのです。

 そのやるべきこととは、今まで真摯に向き合うことのなかった市民からの陳情に、泥臭く向き合おうとすることなのです。周囲から「課長、それは少し無理では」と言われても、主人公は「いや、やる気になれば」と突っ走っていきます。その熱意に気圧され、今まで着手することのなかった不衛生な下水だまりの公園化事業がスタートします。そしてついに、市民にとって念願だった公園が完成するのです。主人公は、真冬の雪が降る中、完成した公園のブランコを揺らしながら楽しげに歌を歌い、死を迎えます。しかし、ラストシーンでは、完成した公園で遊ぶ、大勢の未来ある子どもたちが描かれて終わります。

 この映画を観て、「現代人は忙しいと言われるが、そんな日常の中で私たちは本当に価値のある仕事を行えているのだろうか? 将来に何か残せるのだろうか?」という根本的な問いを突きつけられたように感じました。

 この映画が恐ろしいのは、そんな主人公に感化された人々が「あとに続け!」と叫んだかと思いきや、次の瞬間、いつも通りの生産性のない日常を続けてしまうシーンが描かれていることです。非常に現実的で、絶望的になります。つまり、多くの人は「忙しそうで実は何もできていない人生を送る」ということを暗示しているように思われるからです。

 人は誰でも情熱をもって生きています。しかし、その灯火が消えてしまうこともあるのです。あらゆる人生の壁にぶつかる中で、段々とその火はしぼんでいきます。それでも火を消すまいと努力して生きられるか。

 人はいずれ死ぬ。現代の日本ではその事実があらゆるものに覆い被され、蓋をされているように感じます。死は怖いけれども、だからこそ人は美しく生きられるのではないでしょうか。この映画は、多忙な日常を送る人々にこそ響くものがあるように思われます。

 私は特に高校生のとき、自宅のベッドに横たわりながら天井を見つめ、「死んだらどうなるんだろう。怖い。死にたくないな…」とよく思っていました。今でも、死ぬことを思うと怖くなります。でも、昔と違うのは、この世に生きた証を残したいと思っていることです。以前より死が近づいているからなのでしょう。そのことが私を旅に出させ、本を書かせ、その先に何が待っているのかとわくわくする気持ちにさせています。仕事においては、今いる子たちを全員合格させるには何をしたらいいだろう、つくったらいいだろう、ということを意識しています。そのため、自分のつくったプリントを一生懸命やってくれているのを見ると、何とも言えない感慨が込み上げてきます。生きていて良かったな、と心の底から思えるのです。

 今回の話は重いと感じられたでしょうか。でも、何でも忌避されて遠ざけられる現代では、子どもたちの生きる力も弱まっていると思われるのです。私は、人として、こういった話も積極的にできる側でありたいと思います。

 最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。

岩手県にある「三王岩」のうちの「男岩」です。東日本大震災の津波を受けてもそのままの姿を保っていたようです。間近で見ていて、とても圧倒されました。いつまでも眺めていましたね。一方で、今年の能登半島地震では見附島が崩壊したことが報道されていました。地元に当たり前のように存在していたシンボルが形を変えてしまうのは、さぞ辛かっただろうなと推察されます。自然は恐ろしい。けれども、ときにその自然に励まされることもある。私たちは自然からも、生きるとは何であるか、これからも学び続けていくのでしょう。